出場する大会情報について

全日本クラブ野球選手権大会・都市対抗野球大会についてご案内します。

全日本クラブ野球選手権大会

全日本クラブ野球選手権大会とは?

日本野球連盟加盟チームのうち、クラブチームを対象にしたトーナメント大会です

全日本クラブ野球選手権大会の誕生は、日本野球連盟に加盟している全てのチームが都市対抗野球大会に参加することができるが、1940年代以降企業チームの台頭が進みます。

その当時は都市対抗野球の表舞台で活躍していたクラブチームは本戦に出場することがきわめて厳しくなってました。

そこで1974年から始まった、毎年秋から冬にかけて開催されている、社会人野球日本選手権大会が創設されるまで、社会人野球の全国規模の大会は都市対抗野球のみでクラブチームは都市対抗の予選で敗退したチームはメインの試合を終えてしまうことから、企業チームとクラブチームの実力差は拡大する一方でした。

そこでクラブチーム間の交流と実戦機会の環境を増やす要望がクラブチーム側から上がり、全日本クラブ野球選手権大会の前進となる「全日本クラブ対抗野球大会」が1976年に第1回大会が開催されました。

大会システム

日本野球連盟に加盟しているチームの中で、クラブチーム登録しているチームに出場する資格が与えられています。

同一の企業に所属する選手が10名以上いるチーム、及び広域複合企業チーム(実業団登録扱いのクラブチーム)は、クラブ野球選手権に出場することはできないという規定が存在しています。

ただ、社会人野球日本選手権大会の出場要件を整理した2010年からは、原則として企業登録(広域複合企業チーム扱いのクラブチーム含む)以外のすべてのチームがクラブ選手権の予選に出場することが可能でありました。

従来からこの規定に触れないクラブチームでも、特に企業チームから転換したチームによっては、スポンサー企業やチーム運営の方針から当大会に出場しないチームもあります。

大会にエントリーするには、各地区の予選が開始する1週間前までに日本野球連盟(および傘下各地区連盟・各都道府県連盟)に登録を完了させなければならない。出場する選手についても同様である。

出場枠は登録クラブチーム数および近年の本大会等の成績により見直しが行われることがあるようです。

開催時期と試合会場

開催時期は毎年異なりますが、基本的に8月半ばから9月までの間に行われています。

大会は近年4日間で開催され、金曜日に開幕、翌週月曜日に閉幕する日程となっています。

大会当初は試合会場は一定しておりませんでしたが、第4回大会(1980年)に西武球場(2021年現在:メットライフドーム)で開催すると、その後第20回大会(1995年)まで会場が固定されていた。

クラブチームの拡大を受け、またそのすそ野を広げようとする目的から、第21回大会(1996年)から第33回大会(2008年)まで、西武球場(メットライフドーム)と地方球場の隔年開催となった。ここ最近は再びメットライフドームで開催球場が固定されています。

予選から本大会までの道のり

本戦に出場するには各地区の予選を勝ち抜く必要があります。東京支部所属の東京LBCが本大会に進める道のりは、通年4月末頃に行なわれるJABAクラブ春季大会兼クラブ選手権1次予選に出場して優勝または準優勝チームします。

そこから次の全日本クラブ野球選手権南関東大会で勝ち残った2チームが、本大会への出場権を得られます。

激戦区の東京の大会とその先の南関東大会、そして本大会出場に向けて日々選手達は頑張っております。

都市対抗野球大会

都市対抗野球とは?

都市対抗野球大会は、全国の各都市を代表する実業団チームが社会人野球・社会人クラブチームの日本一を目指して争うトーナメントです。

大会の歴史は長く、毎日新聞社が東京日日新聞時代の頃で大正9年(1920年)に、都市対抗野球大会の前身となる全国実業団野球大会が始まりました。

大会の特色にあげられるのは各チームで様々な応援合戦があります。第二次世界大戦後、会社チームが多くなって生まれた大会の名物で、全国各地の郷土色豊かな応援を繰り広げています。

JR東日本は、応援団が作業員や駅員姿で職場の雰囲気を伝えたして選手へ鼓舞しています。

得点時にみこしを担いでいるNTT東日本、総州太鼓や千葉踊りなどを行なうJFE東日本、個性的なブラスバンドの王子製紙など各チームでさまざまな応援スタイルがあります。

都市対抗野球の歴史 [誕生]

都市対抗野球大会の発案者は東京日日新聞の記者・島崎新太郎でした。

島崎氏が都市対抗野球を考えた目的は、各地の実業団(会社)チームやクラブチームが増えてきたので試合を環境する為と言われております。

当時はプロ野球と同様な人気があった東京六大学野球の選手が学校を卒業すると、人気のあった学生のスター選手達のプレーを観戦する事が出来ずに寂しがっていた野球ファン達に向けて企画されました。

その後、東京日日新聞運動部の記者・橋戸氏は1年余り奔走して同大会を実現させました。

都市対抗野球の歴史 [名前の由来]

「都市対抗野球」の名称は、橋戸氏の友人で小西得郎が「アメリカ大リーグのように都市を背景にした対抗大会にしたい」と提案して命名された。

その後に、昭和2年(1927年)には現在の都市対抗野球大会と名称を変更し、現在に至ります。

また第20回大会(1949年)から日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)が発足し、毎日新聞社との共催となって、毎年夏から秋にかけて大会が開催されております。

都市対抗野球大会では優勝チームに「黒獅子旗」という旗が授与されます。

黒獅子旗をデザインしたのは小杉未醒で、バビロンのレリーフにヒントを得て強者を象徴する黒獅子を描いたところから 「黒獅子旗」と呼ぶになったそうです。

優勝チーム以外にも準優勝チームには「白獅子旗」と本田メダル、3位チームには「黄獅子旗」が授与されております。各地区代表チームは、大会の代表盾を贈れます。

都市対抗野球の歴史 [中期]

第20回大会(1949年)から都市対抗野球大会でおなじみとなっている独特の補強選手制度が設けられました。都市の代表として最強のチームを編成するのが狙いで発足したと言われております。

地区の代表になったチームは、同一地区内のみですが予選敗退チームのなかから最大5選手を補強することができ第21回大会から採用された。2010年の81回大会からは3人までとなりました。

第27回大会では、補強選手制度の発案など創設時から大会育成に尽くした毎日新聞の記者小野の努力をたたえるため、「小野賞」が制定された。大会を通じてすばらしい活躍をした選手個人、またはチームに贈られる賞で、第21回大会での初の受賞は日鉱日立チームでした。

都市対抗野球の歴史 [近年]

第59回大会(1988年)から舞台が後楽園球場から東京ドームへと移りました。

平成13年(2001年)の第72回大会からは「黒獅子エンブレム」が優勝チームに 贈られることになり、優勝チームの選手は翌年の本大会までの1年間、ユニホームに黒獅子エンブレムをつけて試合ができます。

それと同様に優勝チームは、次年度の都市対抗野球大会本大会に推薦出場が出来ますが補強選手はなしとなります。

大会での選手表彰について

優秀選手選考委員会の決定によって次のとおり選手を表彰する。

  • 橋戸賞  :本大会で最も優秀なプレーを続けた最優秀選手。
  • 久慈賞  :本大会で最も敢闘した選手。
  • 若獅子賞 :本大会で特に顕著な活躍をしたチームまたは、監督・選手。
  • 首位打者賞:準決勝に進出したチームで、4試合(打席12、打数10)以上出場して、最高打撃率を記録した選手。
  • 打撃賞  :打撃面で特に活躍した選手。

本大会に向けた予選について

地区では本戦出場を決めるための予選に出場するため、事前に単独または複数の都道府県を単位とする1次予選を行い、これを通過したチームのみ予選参加資格を与えています。

東京都は単独となり、1次予選と対比する意味で、本戦出場をかけて行われる予選を2次予選と呼びます。

2次予選の形式については、地区連盟が定めることができ、トーナメントやリーグ戦が用いられています。

東京LBCが所属する東京都地区の2次予選は1次予選を勝ち抜いた2チームと1次予選を免除された6チーム(主に実業団チーム)の計8チームによる敗者復活併用トーナメントを行います。

東京都の出場できるチームは3チームとなり、毎年熱き戦いが行なわれおります。